日本史

足利義昭の最後は豊臣秀吉の相談役になった?将軍を辞めてもVIP待遇だった!

足利義昭という人物をご存知ですか?
徳川の最後の将軍は徳川慶喜、と有名かもしれませんが、室町幕府最後の将軍が足利義昭であると答えられる人はあまりいないように感じます。
室町時代の終わりは江戸時代のように大政奉還というものもなく、応仁の乱以降荒れ果てた京都や各地の戦からどんどん下克上が始まり、流動的に変わっていってしまったイメージがあるため、なんとなく盛り上がる事もなくひっそり終わってしまったように感じます。

そんな影の薄い足利家最後の将軍である足利義昭ですが、どのように将軍職を辞め、余生をどのように過ごしたのかについてはより一層知られていないと思います。
そこでこの記事では、足利家の最後と、足利義昭の余生についてご紹介していきます。
そこには徳川慶喜との意外な共通点があったのです!

また、室町幕府が滅亡した流れは曖昧な人も多いため、テストでは問題が出やすくなっています。この記事ではテスト対策もしっかりお伝えしていきます。

日本史が苦手な人でもわかる!室町幕府が滅びるまで

室町幕府が滅びた経緯を簡単にイラストにまとめてみました。
実はもともとお坊さんだった足利義昭。彼はどうして将軍になったのでしょうか。

  1. 1565年、義昭の母と兄であり13代将軍だった足利義輝が暗殺される(永禄の変)→これをきっかけに仏門に入っていた(お坊さんだった)義昭が幕府再興を目指すために還俗して武士に戻る
  2. 1568年、義昭は力のあった織田信長を頼って将軍になる→実権を信長に握られ、お飾り将軍になってしまう
  3. 義昭は自分で政治をしたかったため信長と対立!上杉・毛利・武田などを集め信長を討つように命じる
  4. 武田信玄の急死などで信長が勝利、義昭は降伏し、信長によって京を追放される
  5. 1573年、室町幕府の滅亡

この室町幕府の滅亡で覚えておくべき年号は、1565年永禄の変と1573年室町幕府滅亡です。この2つとその前後のストーリーをしっかり覚えておけば、この後に続く織田信長~豊臣秀吉に移っていく安土桃山時代をうまく覚える事ができます!

語呂合わせは
1565年「はい、ごろご(565)ろ永禄の変」
1573年以後なみ(1573)だが止まらない室町幕府滅亡」
と覚えましょう。

ちなみにここで室町幕府は滅亡しましたが、義昭は将軍職を返上したわけではありませんでした。信長が1582年に本能寺の変で亡くなった後も将軍職にあったのです。

補足ですが、義昭がお坊さんだった理由は「室町幕府の風習」のせいでした。義昭の兄である義輝が将軍を継いでいたことから、この後は兄の子供が将来将軍職を継ぐと思われていました。室町幕府の今までのならわしとして、将軍職を継がない男の子は皆仏門に入っていました。(兄弟間の争いを避けるため)そのため義昭も今までの風習になぞらえてお寺で修行をしていたのです。

この風習は鎌倉幕府で兄弟間の争いから源家が断絶した事など、過去の反省を踏まえたものだと考えられます。

足利義昭は室町幕府崩壊後、貧乏ながら新幕府を作る

京都から追放された義昭は、妹婿である三好義継の持つ河内若江城や大阪堺などに居住しましたが、最終的には毛利輝元のいる備後の鞆(とも)という場所に移り、「鞆幕府(ともばくふ)」を樹立します。
いろいろなところを転々としながら大名たちに助けてもらい、自分の荷物なども奪われてしまった義昭は「貧乏公方」とあだ名をつけられるような有様ではありましたが、新しい幕府を作ったのです。

新幕府で信長の死を知る


新幕府で将軍をしていた義昭でしたが、そこに飛び込んできたのは宿敵織田信長の死でした。義昭にとって京で復権することが人生の目標となっていたため、信長がいなくなった今が足利将軍復活のチャンスと思い上洛を計画するのですが、ここで思わぬ邪魔が入ります。

それは、毛利輝元の存在でした。毛利輝元は信長が亡くなった後、羽柴秀吉に付き従うことにしていたのです。
秀吉は本能寺の変のあと、明智光秀を打ち破り、信長の遺志を継ぎ全国統一を果たした人物です。この秀吉に従っているため、義昭の上洛は邪魔だったのです。
こうして毛利輝元が阻止したことにより、義昭は上洛が叶わなくなりました。

そのため、秀吉が全国統一を果たすまでの2年間は、関白秀吉、将軍義昭という変わった構造になってしまいました。

足利義昭は豊臣秀吉に従う事になる

その後、義昭は1587年に九州に向かう途中の豊臣秀吉と対面することになります。この時義昭と秀吉は太刀の交換をするのです。
これはまさに時代が動いた瞬間でした。

かたや将軍、かたや信長の一配下だった元農民が太刀を交換。
下克上を絵にかいたようなシーンです。

こうして復権をあきらめることにした義昭は将軍職を辞し、もう一度受戒したのち、秀吉から山城国の一部を領地にもらい、15年ぶりに京に帰ることが出来たのでした。

教科書に載ってない事実!足利義昭と豊臣秀吉は茶飲み仲間だった

将軍職を辞し、豊臣秀吉の軍門になった義昭は、秀吉軍が朝鮮に出兵したときも途中まで援軍したりと協力体制を保っていました。
この時義昭の軍はかなり優秀な武士が揃っており、かつての将軍の威光は残っていたと思われます。

それを象徴するように、この頃の義昭の待遇は皇族並みのVIP待遇だったうえに、秀吉からは准三后という官位(待遇)までもらっていました。
この准三后は摂関家や親王と同じ格として扱われるほどの地位でした。

また、秀吉からもらった山城国の領地はわずか1万石ではありましたが(多く持ちすぎると復権される可能性もあるので)1万石とは言えども前将軍ということで、殿中での待遇はもはや大大名以上のものでした。

また、この頃には秀吉の良き相談相手として義昭がよく選ばれており、親密に話し合ったりする様子が見られていたそうです。
しかも、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう、将軍の正式な側近として相手する役職)にも任命されました。
実は、秀吉と義昭は1537年生まれ同士。つまり、同い年なのです。
将軍を経験した同い年で、かつて信長の傍にいた者同士、通い合う部分があったのかもしれません。
しかし、将軍としては義昭の方が先輩でしたので、秀吉もその部分で認めて胸の内を明かしていたのでしょう。

足利義昭は意外と世渡り上手


義昭はその後老齢に鞭を打って秀吉の軍に協力してきたため、無理がたたって腫瘍が出来、大阪で亡くなりました。61歳でした。
しかし、この61歳という年齢は、足利将軍家の中で一番長生きでした。江戸幕府の最後の将軍徳川慶喜も一番長く生きていましたから、うまく世を渡って生き延びた将軍というところでは徳川慶喜と足利義昭は似ている部分があるのかもしれません。

亡命幕府を作り、将軍職を守り続けてきた人物ですから、本来ならば秀吉を討って自分が真の将軍に、と躍起になってもおかしくありませんでした。それなのに最終的には秀吉に協力して信頼され、側近や茶飲み仲間として過ごすという選択肢を選んだところを見ると、自分の置かれている立場を見極める能力はあったのかもしれません。
そして、年を取って性格も丸くなり、いいおじいちゃんになったのでしょう。

無理をせず適度に長いものに巻かれ、その中でも自分の毅然とした態度や地位を忘れないこと。
これが将軍を辞した人のうまい生き方なのでしょう。

徳川慶喜の晩年とも重なる部分がありますので、慶喜の晩年や隠居生活も読んでみると面白いですよ。

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それでは最後までお読みいただきありがとうございました。