「少年よ大志を抱け」という言葉を残した人、と言えば誰もが知っている「クラーク博士」ですよね。
北海道には腕を伸ばして未来を見晴らすような堂々とした銅像にその姿を見る事が出来ます。
しかし、クラーク博士が一体北海道で何をして、その後どうなったのかを説明できる人は意外と少ないのではないでしょうか。
そして、「大志を抱け」という言葉通り、大きな夢を持って挑戦し続けたクラーク博士の晩年は散々なものだったことは知られていません。
そこでこの記事では、日本史が得意じゃない人でもすぐにわかるクラーク博士の功績を簡単に紹介しながら、「クラーク博士の帰国後の人生は散々だった?トラブル続きのその後とは!」と題しまして、アメリカに帰国した後の晩年のクラーク博士について説明いたします。
日本史が苦手な人でもわかりやすい!クラーク博士って何をした人?
まずは簡単にクラーク博士がやったことをイラストにまとめましたので、内容を解説いたします。
イラストからわかるクラーク博士について覚える事は
- 1876年に新島襄の紹介で「お雇い外国人」として来日して札幌農学校の教授になった(日本政府が西洋の新しい農業を教えてもらうため)
- 札幌農学校では北海道の農業と酪農の基礎になる事柄を懸命に教えた
この2点だけです!日本史ではこの2つを覚えておけば困る事はありません。
来日した1876年は「いや、(立派に)なろうクラーク来日」と覚えるといいですよ。
※同年に日朝修好条規も結ばれているので2つ同時に覚えるとわかりやすいです!
ちなみに札幌の軍事施設として作られた時計台(現在の札幌時計台)はクラーク博士が作らせたものです!酪農だけではなく、のちの観光名所まで用意した北海道にはなくてはならないすごい教授です。
クラーク博士の詳しい紹介
クラーク博士は簡単に言うと、医者の息子で頭の良いアメリカの大学の教授でした。
教えていたのは化学・動物学・植物学、そして日本で手腕を発揮する農業や酪農についてでした。
明治政府は日本の農業や酪農が西洋に比べて遅れていたため、しっかり農業について教えてくれるお雇い外国人を探していました。そんな時、アメリカに留学に行っていた新島襄(同志社大学の創始者)が「クラーク博士という人がいる」と政府に伝えたのです。
こうして新島の紹介により、クラーク博士は在籍している農科大学の休暇を使って日本にやってきたのでした。
クラーク博士は札幌農学校の教頭になり、農業や酪農の基礎についてしっかりと教え、今の北海道の酪農の基礎を作ったすごい人なのです。
クラーク博士が日本にいたのはわずか8か月!
農科大学の休暇を使って短期的にやってきただけだったクラーク博士の滞在期間は、わずか8か月でした。
1876年7月、札幌農学校の教頭としてやってきたクラーク博士は、キリスト教の精神に基づき、しっかりと英語と植物学を教えていました。生徒からかなり慕われる良い先生だったと言われています。
この8か月の間に、農学校が人材を輩出する下地を立派に作り上げ、別れの時に有名な「少年よ大志を抱け」と言い残し、馬に乗り林の中に消えて行ったと言われています。
その別れの際、生徒たちはクラーク博士との別れを惜しんで学生たちが幾人も同行したというエピソードがある事から、素晴らしい教授だったことがわかります。
クラーク博士が日本に残した意外な食べ物
実は、あまり知られていませんが、クラーク博士はカレーライスを日本に広めた人物だと言われています。(諸説あります)
アメリカ人に比べ、日本の学生の体が小さく貧弱なことをクラーク博士は案じていたらしく、
- 「強い体を作るためにご飯ではなく高カロリーなパンを食べなさい!」
- 「カレーの時は米を食べても良い」
と皆に伝え、食生活から強い人間になるように教えたそうです。
クラーク博士は「少年よ大志を抱け」という言葉を言っていない?
クラーク博士をあまりにも有名にしたこの文章ですが、実はクラーク博士は言っておらず、あとから作られた創作だという説があります。
当時の札幌農学校の同窓会誌や、札幌農学校出身の内村鑑三が編集した雑誌でこの言葉が登場しているのでクラーク博士が言ったと思われがちなのですが、クラーク博士が実際に言ったかどうかの記録があまりなく、クラーク博士が書面としても残していないことから、クラーク博士は実はそんなことを言っていないと言われているのです。
また、正しくは「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のあとに「ライク・ディス・オールドマン」が続いており、「少年よ、この老人のように大志を抱け!」になります。
この言葉を今の文章で翻訳すると、「みんな俺のように(目の前の老人のように)頑張れよ!」というフランクなものになりますので、もしクラーク博士が言っていたとしても、ここまで堅苦しく後世にまで残ると思って発言をしていなかった可能性もあります。
もし軽い気持ちで口にしていたのだとしたら、クラーク博士本人の記憶に残っていなくても仕方ないことですが、少しさびしさを感じます。
クラーク博士は帰国後、いくつもの事業に失敗
クラーク博士は帰国すると、大学に復職し働くものの、財政が悪化してわずか2年後に辞職を余儀なくされてしまいます。
ここから坂を転げ落ちるようにクラーク博士の人生は大きく傾いてしまうのです。
海上学校を作ろうとして失敗
大学を辞めたクラーク博士は、新たに学生たちが学ぶ場所を用意したいと考えました。それも、他ではできない経験を学生にさせてあげたいと思ったのです。
そこで提案したのが、「フローティング・カレッジ」でした。日本語にすると、「海上大学」です。
この計画はかなり奇想天外なもので、学生を汽船に乗せ世界の各地を巡りながら勉強をするという内容でした。今でいうところの世界一周クルーズ旅行をしながら勉強もしてしまおう!という、予算がかかりそうなものです。
こちらは志願者も支援者もまったく集まらず、失敗してしまいました。
銀鉱山会社を設立も失敗
海上大学計画をとん挫した後、クラーク博士が次に手を出したのは、鉱山。
海上大学計画がだめになったことにより、生活費に困るようになっていたものの、海上大学計画もあきらめきれず、資金を集めたいと夢見るようになりました。
そんなクラーク博士は、出資者を募って知人であるボスウェルと共にニューヨークで「クラーク・ボスウェル社」という名前の鉱山会社を設立しました。
最初はかなりの利益を上げたのですが、ボスウェルが横領を繰り返し、あげくの果てに逃亡してしまいます。
実はパートナーのボスウェルは悪党だったのです!それまでに賭博や横領を繰り返していた筋金入りの悪い人だったらしく、クラーク博士は騙されてしまったのです。
結果設立から1年半で破産、負債は179万ドルにまで登り、借金地獄に陥ってしまいました。
クラーク博士はこの会社を設立したときに叔父からお金を借りていたため、倒産後まさかの身内と裁判沙汰になってしまいます。
そして、クラーク博士はすべての財産を叔父に渡す形で敗訴してしまうのです!
しかし、クラーク博士には妻も家族もいたため、叔父の情けで屋敷の権利と名義だけはクラーク博士のままにしたそうです。
クラーク博士は詐欺師と言われ亡くなる
ボスウェルが逃亡したことにより、会社が倒産、海上大学計画の資金も集まらず失意のクラーク博士にさらに追い打ちが。
鉱山会社を設立したときの出資者から詐欺容疑で訴えられてしまったのです!悪いのはボスウェルだったのに、ボスウェルがいなくなってしまったため、そのすべての非難がクラーク博士に降り注いでしまいました。
その後、クラーク博士も被害者だったこと、ボスウェルのせいだったことがわかり、クラーク博士は無罪になったのですが、それでも広がった汚名である「詐欺師」「山師」など陰口をたたかれ続け、心身ともに弱っていきました。
そして、心臓病や肺炎などで苦しみ、日本に来てからわずか10年、59歳で失意のまま亡くなるのです。
日本にいたのは8か月、人脈作りにも失敗したが、北海道の「今」を作ったすごい人
クラーク博士は長く日本にいて、日本で数々のことを教えたイメージでしたが、実はたった8か月しか教えていなかったうえに、帰国後は事業や人脈作りに失敗するというどん底人生を歩んでいたことがわかりました。
もし「少年よ大志を抱け」とクラーク博士が本当に言っていたのだとしたら、はるか遠くを見ている銅像の人物からは想像もできない最期に悲しくなります。
しかしクラーク博士は、純粋に学生たちにいろいろな場所や物を見て勉強してほしかっただけの教授だったのです。しっかりとした人物と会社を作っていたら、海上大学計画は成功していたかもしれませんし、より優秀な学生を世に送り出せたかもしれません。
そして、北海道の「今」はクラーク博士のおかげで作られている、と言っても過言ではないすごい人だったのもまた本当の事なのです。
日本史の勉強でクラーク博士が登場したら、彼が教育に捧げようとした人生を少しでも思い出していただければと思います。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。