日本史

宮本武蔵は巌流島の闘いのその後は芸術家になった!絵の腕前は?

宮本武蔵と言えば、佐々木小次郎との巌流島の闘いがあまりにも有名です。どんな戦いかは知らなくても名前だけは誰しもが知っていますよね。
彼は、戦国時代から江戸時代の初期までを生き抜いた武士で、いろいろな戦いを制していますが、特に巌流島の闘いは演劇や舞台、小説にもなっています。さらに現代ではゲームのモチーフにもされるほど人気の歴史的な決闘です。

彼は13歳で初めて決闘をしたのちに勝利し、それ以来の決闘などにはすべて勝利。60回以上負けなしだったという書物まで残されているほどの腕前だったと言われています。宮本武蔵は「最強の剣豪」の名前を欲しいままにしている武士の中の武士なのです。このような彼の姿に憧れる歴史マニアや研究家は今も数多くおり、彼に関する新しい発見がされるとニュースにもなるほどの人気です。

そんな宮本武蔵ですが、晩年は芸術の道を進み才能が開花したというのを知らない人は多いのではないでしょうか。
この記事では、巌流島の戦いで佐々木小次郎を討った後の宮本武蔵をご紹介いたします。

宮本武蔵の闘いの軌跡

宮本武蔵は幼いころから剣術を磨き、修行に励んできた武士の中の武士でした。
そんな宮本武蔵が芸術に目覚めたのは1640年ごろとされています。
それまでの宮本武蔵の略歴を辿りながら、どのような才能が開花したのかを説明いたします。

日本史が苦手な人でもわかりやすい!4コマで教える巌流島の闘い


巌流島の闘いがいつあったかというのは諸説あるらしく、1602年から1612年ごろとされています。
巌流島の闘いの一番有名な説であるあらすじを4コママンガにまとめました。

  1. 剣豪として有名だった武蔵は、西日本の細川家にいる佐々木小次郎というやつが強いと知り、細川家の人に小次郎と決闘させてほしいとお願いします。
  2. 小次郎側からOKの返事とともに日時と場所の指定が届きました。(決闘の日は4月13日の午前8時ごろ
  3. 武蔵、2時間遅れで巌流島に到着(これも作戦か?)さらになかなか船を降りないため小次郎はイライラ。
    とうとう小次郎は波打ち際まで歩み寄って刀を抜き、鞘を海中に放り投げる暴挙に出ます。
  4. 結局終始イライラしっぱなしの小次郎は手元が狂ったのか武蔵を倒すことが出来ず、武蔵の勝利となったのでした。

その他武蔵は遅刻していなかった、武蔵は部下を連れて行って弱った小次郎を袋叩きにした、など諸説はありますが、武蔵は小次郎に勝利しました。

もし今回4コマにした武蔵が2時間遅刻したというストーリーが本物だとしたら、武蔵は小次郎に「武芸の達人はいかなる時も冷静さを欠いてはいけません」とでも伝えたかったのでしょうか。
そうだとしても、この勝利はかなりずるがしこいというか、とんちが効いているように感じられますね。

ここで覚えるべき内容は、「宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で戦い、武蔵が勝利した」という内容だけで充分です。
なぜなら詳細がはっきりしないことと、いつあったことなのかの根拠ある資料がないからです。

宮本武蔵は大坂の陣、島原の乱にも出陣した

巌流島の闘いの後、1614~15年に起きた豊臣と徳川の戦いであった大坂の陣で武蔵は徳川の味方をし、大活躍します。
さらに武蔵は1638年に天草四郎が起こした日本史最大の一揆とも言われている島原の乱に出陣します。
しかし、武蔵はすでに55歳になっていました。そのため動きが鈍っていたのかもしれません。
島原の乱の後に知人に送った書簡(手紙)の中で「石に当たってすねを怪我しました」と書いてあり、大坂の陣のようにはうまく体が動かなかったものと思われます。

最強の剣豪ではあったものの、老化には負けてしまったのです。

宮本武蔵は熊本に移動し隠居生活をスタートさせる


島原の乱から2年後、武蔵は熊本にいた細川忠利に招かれて、熊本に住む場所を変え、隠居生活をスタートさせます。
細川忠利も剣術の達人で、武蔵を高く評価していました。食い扶持だけでなく熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷も与えられ、鷹狩りをすることを許されるなどかなり良い待遇で忠利から迎えられ、悠々と余生を過ごしていました。

細川忠利の死から武蔵は禅の世界へ

武蔵はそんな自分を高く評価してくれる主、細川忠利のために、「兵法三十五箇条」という武蔵の兵法をまとめた武芸書を書き上げます。
ところが、忠利は書の完成からわずか1か月後に突然亡くなります。
あまりの悲しみにこの世の無常を想いながら嘆いた武蔵は、禅の世界に没頭していきます。
この頃から武芸書の執筆だけでなく、様々な芸術に才能を開花させます。

宮本武蔵は水墨画・書画・彫刻の達人になった

武蔵は自分の武芸書をまとめる傍ら、禅の境地から芸術の才能を磨くようになります。
水墨画や彫刻など様々な作品を精力的に作り出します。

現存している水墨画で有名なものに「鵜図」や「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」などがありますが、剣術の達人とは思えないほど、繊細で美しいタッチで鳥が描かれており、晩年の武蔵の禅から学んだ静かな芸術を余すことなく表現している作品です。
武蔵の才能は60歳近くなってから開花したのです。

宮本武蔵の絵はこちらでご覧ください。
鵜図:永青文庫ホームページ
枯木鳴鵙図:和泉市久保惣記念美術館ホームページ

こうして、武蔵は剣術の現役からは完全に退きました。その逸話として有名なものに、徳川家光から剣技を披露してもらいたいと言われたのにもかかわらずそれを断り、その代わりとして絵を贈ったというものまであるのです。
あの最強の剣豪が絵を贈ったというエピソードはあまりにもインパクトがありますよね。それだけ穏やかな晩年を過ごしたということがわかります。

宮本武蔵はがんにかかっていたと言われている

武蔵が穏やかに武芸書を書き上げ芸術をたしなんでいたころ、武蔵の体には変化が。
武蔵は病気になってしまったのです。おそらくがんにかかっていたと言われていますが、武蔵はみるみるうちにやせ細っていったそうです。
しかし、そんな状態になっても武蔵は自分の兵法書を後世に残すために必死に筆を執り続けました。

こうして最後の力を振り絞って兵法書を書き上げ、そのわずか1週間後にかつて忠利から与えられた千葉城で息を引き取りました。62歳でした。

宮本武蔵は芸術の達人になったが最期は武士だった


武蔵は芸術の達人になり、剣術からは引退しましたが、武蔵の遺言により遺体には甲冑が着せられて埋葬されました。
最期は本来の自分の姿で旅立ちたかったのでしょう。
だからこそ、兵法書を書き上げて思い残すこともなく亡くなったのです。

武士の中の武士と思われがちな宮本武蔵が、芸術にも秀でていたのはかなり意外だったと思いますが、最後は武蔵らしく埋葬されて何となくホッとしますよね。
そんな武蔵は現在熊本市の武蔵塚公園にお墓があり、この中で眠っています。このお墓は一般の人がいつでも訪れられるようになっているので、是非行ってみてはいかがでしょうか。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。