古代の日本史を勉強すると必ず出てくる名前として有名なものが「蘇我氏」です。蘇我馬子や蘇我蝦夷などいろいろな名前が出てきて誰が誰だかわからなくなってしまったという経験をした方も多くおり、つまづくポイントでもあります。
そんな蘇我氏と切っても切れない事件というのが「大化の改新」です。(今の教科書では「乙巳の変」と「大化の改新」は別項目で表記されます)
しかし、「大化の改新」という名前は知っていても、実際どうして起きたのか理由やきっかけを正しく説明できる人はかなり少ないです。
そこでこの記事ではイラストや図を交え、蘇我氏と大化の改新についてのきっかけやストーリー、年号の語呂合わせなどを教えながら、その後の蘇我氏についてお伝えしていきます!
蘇我氏の出自ははっきりしていない
そもそも蘇我氏が歴史の表舞台に出てくるのは飛鳥時代までさかのぼります。そこまで古くなってしまうと出自ははっきりしませんが、それくらい古い由緒正しい家柄です。
出自ははっきりとはしないものの、説としては2つあります。
- 第8代天皇である孝元天皇ひ孫にあたる武内宿禰(たけしうちのすくね)が祖先とされる説
- 百済王族の木満致(もくまんち)と蘇我満智(そがのまち)が同一人物で、渡来人が祖先とされる説
どちらにせよ、天皇か王族の末裔ということで高貴な家柄である事は間違いなさそうです。
蘇我氏が中央政権で力を持った理由は天皇とのつながりだった
蘇我氏が教科書で最初に出てくるのは、蘇我稲目(そがのいなめ)という人物からです。
稲目は536年に大臣となり、財務関連の政治で才能を発揮します。
その後、自分の娘2人を天皇の后として嫁がせることに成功、のちに稲目の娘が生んだ子供たちが3人も天皇になり、稲目は天皇の「おじいさん」となり力をふるうのです。
(これを天皇の外戚になる、と言います。)
詳しくイラストで表すとこちら。
自分の娘を2人、同じ男性(欽明天皇)に嫁がせました。
ちなみにこの頃は姉妹で夫を取り合ったり、兄妹の結婚もタブーとされていませんでした。
本当にタブーなのは、母親が同じ兄妹の結婚だけでした。なぜなら当時一夫多妻制で男性が妻の元に通う結婚方式だったため、母親が違えば違う家で育つことになります。違う家で育った兄妹は結婚することが許されていたのです。
このような時代だったため、親戚同士の争いが絶えませんでした。
天皇に娘を嫁がせる外戚制度は繰り返す
この外戚制度ですが、のちの藤原氏(藤原道長など)も同じように天皇に娘を嫁がせて政治的権力を欲しいままにしました。(一条天皇に娘の彰子を嫁がせています)
500年経っても同じことをしているところが面白いですよね。
また、江戸時代にも将軍の娘を天皇に嫁がせ、その子供を天皇にしたことがありました(明正天皇)。500年どころか1000年以上経っても似たようなことをしているのが驚きですね。
蘇我馬子が登場し蘇我氏はさらに力をつける
稲目の息子である蘇我馬子の時代になると、さらに蘇我氏は力をつけることになります。
まずは簡単にまとめた4コマ漫画をご覧ください。
さらに詳しく解説していきます。
- 仏教を導入するか否かで馬子が活躍したころには蘇我氏と物部氏との対立が激化するようになります。
蘇我氏は仏教を推進する崇仏派、物部氏は仏教ではなく日本古来の神様を信じようとする廃仏派でした。 - その後、587年に蘇我馬子は物部氏の筆頭であった物部守屋を打ち破ります。
587年はテストにも出ますので覚えておきましょう。
語呂合わせは『硬派な(587)物部守屋を殺害』と覚えると簡単です! - さらに、592年に物部氏を打ち破り力をさらに強固なものにした馬子のことをあまり良いと思っていなかった崇峻天皇を、なんと馬子が暗殺します!!
先ほど掲載したイラストをよく見ると、稲目の娘の小姉君の息子が崇峻天皇だったため、馬子と崇峻天皇はおじと甥っ子という間柄になります。それなのに暗殺とはかなり怖いですね。
592年の語呂合わせは『ゴー!国(592)へ!崇峻暗殺』と覚えます。 - こうして天皇=推古天皇、摂政(実質政治をやる人)=聖徳太子(厩戸皇子)、大臣=蘇我馬子という三頭政治が出来上がるのです!
蘇我氏の横暴が激化し「大化の改新」が起こる
馬子の子供の蝦夷の時代になると、誰を次の天皇にするか(皇位継承問題)で意見が対立しただけで蝦夷のおじである人物を殺害したり、蝦夷を天皇と同じような待遇で扱わせるようにするなど横暴なふるまいが続きます。
さらに642年、蝦夷の子供の入鹿が、自分の権力を欲しいままにするために、自分にとって邪魔な存在だった山背大兄王(やましろのおおえのおう・聖徳太子の子)やその他邪魔な王族すら自殺に追い込むなどどんどんと悪いことをしていきます。
このように、どんどんと自分たちが好き放題するために何人もの人物を殺す、自害するなど追い込んでしまったのです。
こうして蘇我氏の力に対して恐れを覚えたり、ひそかに怒りに燃える人が増えていきました。
その結果起きたのが「乙巳の変」なのです!!
645年中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺、入鹿の死を見て蝦夷が自害するという事件。これが「乙巳の変」です。
語呂合わせは「虫殺(645)しの乙巳の変」と覚えましょう。
その後、翌年646年に、乙巳の変の後に政治を整えなおしたのが「改新の詔(かいしんのみことのり)」と言い、「乙巳の変」から「改新の詔」までをまとめたのが「大化の改新」です。
図でわかる!蘇我氏のその後
今までの蘇我氏の話を整理しながら、蘇我氏のその後について解説いたします。
こちらが蘇我氏の家系図です。
かなり近親婚と亡くなった人が目立ちますが、この図を見ると、「蘇我氏」としての名前はなくなっています。しかし現代の藤原氏や天皇家にその血は脈々と受け継がれていることが分かります。
つまり、「乙巳の変」で蘇我氏が消滅したと思われがちですが、実際は蘇我氏宗家がなくなっただけで、蘇我氏そのものは消滅せずに現代まで残っているのです!
飛鳥時代から現代まで残っている家系というのはかなりロマンがありますね。
歴史的事件から家系を調べると受験勉強にもなる
蘇我氏のように暗殺や自害などが大きく教科書に掲載されていると、お家断絶のようなイメージを持たれがちですが、実際は意外なところに繋がりがあったりと面白い発見をすることがあります。
特に平安時代以前は兄弟間の結婚なども多く、かなり血縁関係が入り乱れているため、整理していくとわかりやすいという場合もあります。
例えば応仁の乱や南北朝時代など、親子や兄弟の争いをこのように家系図にしてまとめてみると頭の中が整理しやすいですし、自分でストーリーとして落とし込むこともできますので、受験勉強としてもかなりおすすめです。
是非頭の中でうまくまとめられなかったときに、家系図の作成に挑戦してみてください。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。