日本史

杉田玄白の人生は大成功!翻訳者と医者の両方で大ブレイクした理由とは!

小学校の教科書にも出てくるくらい知名度の高い江戸時代の人物の一人に、杉田玄白がいます。
内容を詳しく知らなくても、名前と「解体新書」という単語だけは知っている人も多いのではないでしょうか。

実は杉田玄白は江戸時代の人にしては珍しく、なんと85歳まで長生きしています。
現代の男性でも85歳というとあり得る寿命ですよね。
よく歴史の教科書に出てくる偉人は晩年恵まれていなかったり、あとから功績を称えられることがありますが、杉田玄白は存命中から人生に恵まれ大成功した人物のうちの一人です。

この記事では、『杉田玄白の人生は大成功!翻訳者と医者の両方で大ブレイクした理由とは!』と題しまして、杉田玄白が教科書に掲載されたその後の幸せ過ぎる人生についてご紹介いたします。

日本史が苦手な人でもわかる!杉田玄白ってこんな人

日本史では必ず出てくる杉田玄白ですが、実は覚える事はかなり少なくても良い人物となります。覚えなくてはいけない内容はこちら。

1774年『ターヘルアナトミア』という医学書(蘭書(オランダの書))を翻訳し、『解体新書』として発刊した外科医。

この一文さえ覚えておけば、テストや大学受験は完璧と言えるでしょう。しいて言うなら、その周辺の出来事の年号を覚えておけばよいかなという程度です。(まれに日本史で時代の並べ替え問題が出ることがあるため。)

杉田玄白についてもっとわかりやすいように、簡単にプロフィールイラストとコメントを描いてみました。
自分の夢のため、患者のために一生懸命研究した「医者の鏡」ともいえる真面目な人物なことが分かります。

ちなみに『解体新書』が出来た1774年の語呂合わせは
『玄白の 解体新書に 非難なし(1774)』になります。
杉田玄白が書いた解体新書が皆に認められた良質な書だった、ということが年号と一緒にまとめて覚えられる一石二鳥以上の語呂合わせです。

しっかり覚えておきましょう!

杉田玄白の父も医者だった、医師の家庭の三代目のお坊ちゃん


杉田玄白の生い立ちをご紹介すると、現代でもよくある事ですが親が医者だったため自分も医者になったという「医者家系」でした。
ちなみに玄白は三代目だったそうです。代々医師の家庭だったので生活は割と恵まれていたと思われます。

現在の福井県にあたる若狭国の藩医(藩お抱えの医者)の息子として生まれ、17歳ごろに幕府の御典医(幕府のお抱えの医者、別名おさじ)である西玄哲という男性の門下になります。その後、2年で医学を習得し、20歳で玄白の父同様に藩医としてデビューしました。

杉田玄白を変えたのは日本初の人体解剖だった

藩医として5年働いた玄白でしたが、玄白が医者になりわずか2年後、医学界の革命的な事件が起こります。

なんと、日本で初めて人体解剖がされたのです。

場所は京都。処刑された罪人の腑分け(人体解剖)を実施したところ、オランダから入ってきていた書(蘭書)のイラストにあった人体の臓器についての記述がかなり正確だったことを確認したのです。

日本の医学の概念を変えた蘭書の登場

実は人体解剖が行われるまで日本では「五臓六腑説」が主流で正しいとされてきました。

五臓六腑説とは

五臓六腑説とは、中国の伝統的な医学において、人間の内臓全体は「五臓」と「六腑」で全体であるとされてきたことで、西洋の医学とは全く異なります。
現代医学と違うのは、解剖した具体的な臓器そのものを表しているのではなく、現代でも漢方や東洋医学で用いられる『「精」「気」「血」などの概念に基づいている概念』になります。

そのため、陰陽道と密接なつながりを持っていたり、それぞれの部位に対する感情表現があります。
例:肺の場合、『魄(はく)という性質があり、成長させる作用や五官の働きを促進させる効果があるが、強すぎると物思いにふける』とされています。

しかし、実際に手術をするなどの治療をするとなると、蘭学に書いてある図説に沿った治療の方が確実なのではないかと思われるようになってきたのです。

杉田玄白は家を継がずに江戸で外科のスーパードクターになる

人体解剖と蘭学の正確性に触れ、日本の医学界の歴史が動いた時代に医者になった玄白は、江戸の日本橋に開業。町医者としてデビューします。
藩医としてよりも、たくさんの人を救ったり、人体の研究をしたいという気持ちが彼を突き動かしたのでしょう。父の住む藩ではなく、江戸に家まで構えました。

江戸でたくさんの人の治療をしながらも研究をすることによって、玄白の医者としての腕はみるみるうちに上達。江戸で有名なスーパードクターとして人生1つ目の成功を掴みました。

江戸での修行ののち藩の奥医師になる

江戸でたくさんの勉強をした玄白は、1765年に藩の奥医師となりました。
この頃玄白は蘭書を原文のままで読むためオランダ語の習得を目指しますが、通訳の人から「オランダ語は難しい」と諭されてオランダ語の習得は断念しました。
研究熱心な玄白でも、言語の習得はあっさりと諦めるところを見ると、本当に医学にばかり研究を注いていたのではないかと感じますね。

その後、父の死をきっかけに杉田家の家督と侍医の職を継ぎました。

杉田玄白が人体解剖を見学、努力して解体新書を刊行すると評判に


1771年、玄白は知り合いが持ってきたオランダ商館院からオランダ語で書かれた医学書「ターヘル・アナトミア」を借りる機会を得ます。
オランダ語はまるっきりダメだった玄白ですが、その図説の正確さと精密な説明に驚き、この医学書を自分のものにしたいと強く思うように。
そこで藩に直談判し、無事に購入に成功します。

偶然その頃玄白は人体解剖を見学する機会を得たため、「ターヘル・アナトミア」を片手に見学したところ、あまりの正確性に舌を巻きます。
一度はオランダ語の習得をあきらめた玄白でしたが、どうしてもこの書を和訳したいと蘭学者の知り合いや仲間たちの協力を得ながら一生懸命に努力し、3年後の1774年に「解体新書」として刊行。これはのちに将軍家に献上されるレベルの素晴らしい本として医学界でまたしても成功を収めました。

解体新書のめどが立ったころ結婚

玄白はそれまで家庭を持っていませんでしたが、解体新書の刊行のめどが立ったころに結婚。年齢は41歳になっていたので晩婚ではありましたが、妻との間に1男2女を設けました。
しかし、長男は病死、妻も闘病の末病死してしまったため、自分の門下である男性と娘を結婚させ、杉田家の家督を守る事には成功します。

研究者として成功後も医者として出張診療も行う

江戸きっての名外科医として名をはせていた玄白。「解体新書」の発売後は研究者としてもその名を轟かせていましたが、その時も多くの患者を救っていました。
江戸の医院に腰を据えていたのではなく、出張診療も精力的に行い、それは玄白自身が年を取ってからも続けていたのです。

研究だけでなく人をたくさん救いたいという思いに駆られていた理由は、自分の子供を亡くし、妻にも先立たれた玄白だからこそ、人が亡くなる悲しさを味わわせたくないという気持ちもあったからだと考えられますね。

ちなみに出張診療の合間にはちゃっかり芝居見物などをして余暇をしっかりと楽しんでいたので、ワークライフバランスに優れた人だったとも言えます。

杉田玄白は自分の幸せな人生を「九幸」と表した

玄白は晩年、自らを「九幸」と号し、愛用していました。
「九幸」の中身はこちら。

  1. 泰平の世に生まれたこと
  2. 都(江戸)で成長したこと
  3. 貴賤(金持ち・貧乏)を問わず人々と交友できたこと
  4. 長寿に恵まれたこと
  5. 安定した俸禄を受けていたこと(給料の安定)
  6. 貧しさを経験せずに済んだこと
  7. 天下に広く名を知られたこと
  8. 子孫に恵まれたこと
  9. 老いてますます壮健であること

玄白がだれしもがうらやむ人生を送り、それに対して満足していたことが分かります。
しかし、注目したいのが、「大金持ちになった」わけでも、「幕臣になった」わけでもないということです。

自分らしく生きながらも、食べるものに困る事がなく、子供や健康に恵まれ、いろいろな人に出会うことが出来、勉強して成長できたことが何よりの財産だったのです。

杉田玄白が成功した理由は「慎ましさ」と「ひたむきさ」


玄白が人生において大成功した理由は、地位のためにお金に固執したり研究のために患者をおろそかにしなかった、「慎ましさ」と「ひたむきさ」だと考えられます。
先述した「九幸」でも、大きなことを喜ぶというより、毎日不自由なく生活したことや、自分の仕事を満足するまで出来たことを喜んでいます。

有名になってもこの人間性だった玄白の元にはたくさんの人々が集まり、尊敬されたのでしょう。実際に1776年に玄白は医学塾を開き、たくさんの生徒たちに医学について教えています。
玄白は将来を担う若者たちに自分が行ってきた内容や行動を託して幸せに亡くなったのです。

玄白の人生を知ることによって、今の自分の生活に感謝し、小さなことでも幸せだと感じられる心を持ちながら、自分の研究や課題にまっすぐ純粋に向かう大切さを知ることができれば、充実した人生になるのかもしれませんね。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。