教科書で語られないその後の日本史の中には面白い内容がたくさん語られています。
なにか偉業を成し遂げたり、日本を大きく変えた人物のその後は意外な幕切れであることも多く、知っているとより日本史が楽しくなることが多いのです。
例えば、人生で一度は写真を見たことがある、というくらい有名な外国人のフランシスコザビエル。
「日本にやってきてキリスト教を広めた人」である事はわかるのですが、ザビエルの一生を語れと言われたら知らない人が大半です。
また、日本にやってきた後どうなったのかを知っている人はほとんどいません。あれだけ有名な人であるにも関わらず、日本に来る前後は教科書でほとんど語られません。
この記事では、日本史が苦手な人でもすぐに覚えられる「テストに出るザビエルの活動」をしっかり押さえつつ、布教に人生を賭けたザビエルのその後の意外な最期までをご紹介いたします。
フランシスコザビエルの来日前の略歴
フランシスコザビエルは、スペインにあったナバラ王国に生まれ、パリ大学に留学中に哲学を学んでいましたが、途中で知り合った仲間である37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)らとともに聖職者を目指し、イエズス会を創立しました。イエズス会はほどなくして当時のローマ教皇にも認められます。
そして、イエズス会ではキリスト教を世界に広めようという目標を定めていました。そこで、ザビエルは当時ポルトガル領だったインドのゴアに向かいます。
実はこの時、ザビエルはインドに行く予定ではなかったのですが、もともとインドに行く予定だった宣教師が病気で行けなくなったので、代役として向かったのです。
これがザビエルの人生を大きく左右します。
インドで布教をしていた時、ザビエルは鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という男性と出会い、そのヤジロウの案内で中国を経由して、鹿児島にたどり着いたのです。
日本史が苦手な人でもわかる!ザビエルが日本で行ったことをイラストにしてみた
ここからとうとう日本史で登場するザビエルのストーリーが始まります。
ザビエルは日本の各所で布教活動をしました。あまりにもさまざまなところで布教をしたことにより、複数の地でキリシタン大名が生まれました。
そのため、このあたりの日本史があやふやな人も多い印象です。
ザビエルが日本でやったことは以下のイラストの通りです。
※教科書よりも詳しくそして簡潔にまとめてありますので受験などにも是非役立てていただければと思います。
イラストからわかる、日本史が苦手な人がザビエルについて覚えるべきポイントは4つ!
- 1549年(以後よく)にザビエルは日本の鹿児島県にやってきた
- 鹿児島で布教がうまくいかなかったので山口と京都でも布教して失敗
- 山口で再チャレンジして大内義隆からOKをもらい布教
- 大分では大友宗麟から歓迎されて布教
これさえ覚えておけばザビエルのすべてを語ったと言っても過言ではありません。テストもばっちりです!
大内義隆と大友宗麟の名前がややこしいので、
『ヤマウチ(山口+大内)・オオトモ(大分+大友)』と当時覚えていました。
もっと知りたい!さらに詳しくまとめたザビエル日本冒険記
さらに詳しくザビエルが日本でやったことをまとめました。
※イラストをさらに細かく詳しく説明しています。
- 1549年薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て鹿児島市祇園之洲町に来着
- 薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た
- 島津貴久が禁教に傾いてしまったため、京にのぼり日本中へ布教をすることを理由に薩摩を去る
- 長崎の平戸で布教活動後、山口に行くも守護大名だった大内義隆の怒りを買ってしまう(男色を罪とするキリスト教の教えが許せなかったため)
- 山口から海路で大阪・堺へ移動
- その後、京に着いたものの、献上品がなく、天皇・将軍共に謁見が叶わなかった
- 比叡山延暦寺にも行ったが拒まれた(すべて応仁の乱以降の戦乱により京が荒廃し、乱れていたが故だと言われている)
- 失意のまま京を去り、山口経由で平戸へ戻る
- 平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入り、大内義隆に様々な献上品を渡し、布教活動を認めてもらう(その中には眼鏡、鏡、望遠鏡など京で渡すための様々な献上品があった。眼鏡を日本に初めて持ってきたのはザビエルだと言われている)
- 2か月間の布教で500人の信者を得る(最終的には700人以上)
- 大分にポルトガル船が来たと報せを受け、今度は大分で守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、布教活動をする
- 日本に2年滞在したころ、インドに戻る事を決意、日本人青年4人を一緒に連れて行き、帰ることとなった
日本の教科書では鹿児島にやってきて布教をしてそのままいなくなったと思われがちですが、鹿児島から京まで布教のために何度も移動していることが分かります。
そして、布教活動は瞬く間に広がり、キリシタンが誕生していったのです。また、この時の教えから鎖国の踏み絵にまでつながるのですから、日本人の信仰心と真面目さもよくわかります。
フランシスコザビエルのその後
では、ザビエルが日本を離れた後はどうなったのでしょうか。
実は、あれだけ日本で布教活動に勤しみ、たくさんの信者を得て功績を残したザビエルですが、その後はあっけない終わり方をしてしまうのです。
ザビエルが中国へ!その理由は日本にあった
日本を去ったザビエルは、中国に入り布教することを決意します。インドから日本に来た時は中継地でしかなかったのにもかかわらず、なぜそのような考えに至ったのかというと、実は日本の文化や宗教の考えが中国からの影響を大きく受けていることに気付いたからだったのです。
ザビエルは、「中国で布教活動が成功すれば、日本にあれだけの影響力がある国だからアジア中の信者獲得につながる」と考えました。
そこで、予定にはなかったものの、インドに帰った後、すぐに中国へと旅立ったのでした。
ザビエルの体調に異変、そして中国での苦難
ザビエルは日本を出発した船の中で体調不良になり、だんだんとご飯を食べることができなくなり、どんどん衰弱していきましたが、それでも布教のやる気に満ち溢れていたため働き続け、インドに無事戻りました。今でいうところのランナーズハイ状態だったようです。
そんな時、弱っているザビエルにさらなる苦難が襲います。
日本での謁見の失敗から学んだザビエルは、中国皇帝への贈答品をしっかりと用意し、準備をしっかりしたうえで船を出発させる計画を進めていましたが、ここで思わぬアクシデントが発生します。この時、サンタクルス号という船にペレイラという使節が乗り込んで贈答品とともに中国に向かう予定でしたが、インドの司令官に「ペレイラの中国渡航を禁止する」と命令されてしまったため、仕方なく別の船であわただしく中国に向かう事になってしまいました。結局贈答品はあきらめざるを得ませんでした。
実は当時の中国は鎖国体制真っ只中。そのためザビエルたちはひっそりと布教活動を開始します。しかし、あまりのドタバタ渡航劇と環境の変化もあったのか、同行者2人が病に倒れてしまいます。ザビエルは自らも弱っていたのに2人の病人に食べ物を分け与え続けました。
ザビエルの最期はあばら家で迎えた
ザビエルはさらに弱り続け、高熱を発症。ついには肺炎になってしまいます。そして、あっけなく息を引き取ってしまったのです。
インドや日本で多くの信者を獲得し、イエズス会の活動に命を注いだ宣教師は、中国で屋根もないあばら家でひっそりと亡くなってしまったのです。
ザビエルが最期に残した手紙には、「生きていることを念願した時代は、もう過ぎ去った」と力なく書かれていたそうです。
あまりにもあっけなすぎる偉大な宣教師の最期でした。まだ46歳の若さでした。
ザビエルが亡くなってからの奇跡
ザビエルの遺体は、何年経っても腐ることなく、まさに眠るようにそのままの姿だったと言われています。あまりの奇跡に女性の信者がザビエルの遺体から足の薬指と小指を噛みちぎって持ち去ってしまったという話もあったほどでした。あまりにもすごい奇跡だという事はわかります。そしてザビエルが無理に改宗させたわけではなく、皆の心を掴んでいたという証でもあります。
また、美しいままの姿で50年以上経っているザビエルの遺体を切断して、イエズス会の会長に送ることにしたのですが、その時腕を切断した瞬間、鮮血がほとばしったという逸話まで残されており、そのことを知った世界各国のキリスト教信者がこぞってザビエルの遺体を欲しがったとされています。
そのため、キリストと同じように、ザビエルのお墓と言われている箇所がいくつも残されています。ザビエルは今でもキリストと並ぶくらいクリスチャンから尊敬されている存在です。
功績の割に寂しい晩年を迎えた
ザビエルは教科書で描かれている姿は輝かしい宣教師としての姿でしたが、最後はインドにも故郷にも帰る事が叶わず、中国でひっそりと亡くなっていたのには驚きでした。日本の教科書では功績のみを取り上げる事が多いため、有名な人の末路を知る事はあまりありません。
日本史が好きな人もそうでもない人も、このような「その後」「最後」を知ることによってより日本史に興味を持ち、楽しむことが出来ると思いますので、調べてみることをお勧めします。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。