日本史

徳川慶喜の隠居生活は趣味三昧!カメラや自転車にハマったハイカラだった!

江戸時代、徳川家が代々将軍として君臨し、統治していた時代。
その最後の将軍が15代、徳川慶喜です。
かの有名な大政奉還をし、武士の時代を終わらせた現時点で江戸時代だけでなく、全時代の最後の将軍です。

そんな徳川慶喜が将軍職を辞し、隠居生活に入ったのはまだ30代になって間もない頃。そして亡くなったのは77歳でしたので、人生の半分以上が隠居生活だったことになります。
では、慶喜が隠居してからはどのような生活を送っていたのでしょうか。答えは、『ラフな格好で趣味三昧』です!

この記事では、慶喜が人生の半分以上をどのように楽しく謳歌したのかをご紹介いたします。
また、日本史のテストに出る徳川慶喜の将軍だった頃の様子なども詳しくまとめました!

日本史が苦手な人でも簡単にわかる!テストに出る徳川慶喜

徳川慶喜がどんなことをやった人なのかを簡単にイラストにまとめました。

ここで覚えるべき元号は2つ、行動は5つです。テストに出る行動は3つ(大政奉還・王政復古の大号令・鳥羽伏見の戦い)ですが、ステップとして5つ覚えておくとひとつのストーリーとして覚えやすいですよ!

  1. 徳川家茂が病死し、1866年に徳川慶喜は何度も断ったものの、最終的には渋々将軍になる
  2. 開国を進めながら「新しい将軍」として舵取りをしたが、薩長など有力な藩が反対
  3. 1867年慶喜は大政奉還し、将軍を辞めつつも朝廷の代わりに政治をしようと画策
  4. 同年1867年薩摩をはじめとする藩が王政復古の大号令を出して朝廷を制圧し、新政府を作る。
    これにより慶喜は官位をなくし、幕府の土地も失くした
  5. 1868年旧幕府軍と新政府軍の争い「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍は劣勢になり、さっさと見切りをつけて慶喜は諦めて逃げた

ここで出てくる元号の1867年(大政奉還・王政復古の大号令)は「いや、むなしい」と覚え、1868年(鳥羽伏見の戦い)は「うやむや 鳥羽伏見の戦いで逃亡」と覚えると簡単です。

また、将軍就任→鳥羽伏見の戦いまでは並べ替えのテストでもよく出ます。特に大政奉還と王政復古の大号令はどちらが先か忘れがちなので、このストーリーさえ覚えておけば間違えません!

徳川慶喜は潔い性格の将軍だった


慶喜はとても頭がよく、15代将軍として周囲から「幕府を立て直してほしい」と期待されていたものの、すでに手遅れで諦めた方が良いというのを誰よりも理解していたと言われています。
大奥も無駄に出費がかさんでいましたし、これ以上幕府を保つにはさらなる戦を仕掛けなくてはいけません。幕府よりも薩摩藩や長州藩など勢いのある藩が最新式の武器や兵力を持っていたこともあり、幕府には力がないことをわかっていたのです。

そのため、慶喜は「大政奉還します」「江戸城無血開城します」とさっさと決めてしまいます。
幕臣たちは何度も「そこをなんとか」と抗争を願ったようですが、それも空しくさっさと幕府を消滅させました。

将軍引退後すぐに謹慎生活へ

慶喜の潔さは将軍の職を辞した後も続き、江戸城無血開城のあと、すぐに静岡に移動し、謹慎生活を送ります。
その様子は元将軍とは思えないほど質素なもので、誰も文句のつけようがない様子だったのです。

そのため、明治新政府としても、すぐに許すこととなり、その謹慎生活はわずか1年で終了します。
慶喜のこの潔い性格が吉と出た瞬間でした。この後慶喜の人生はがらりと変わります。

教科書には載ってない、徳川慶喜の悠々自適な隠居生活

慶喜は謹慎を解かれたあと、静岡県内の豪邸で趣味に興じる人生をスタートさせます。
今まで将軍家としてやって来れなかったことを取り戻すかのように様々なことに挑戦し、没頭していくのです。

慶喜が没頭したものを紹介すると

  • カメラ
  • 油絵
  • 書道
  • 自転車
  • 手芸
  • 狩猟

と多岐にわたっています。
それぞれどのような功績や逸話があったのか、一部ですが紹介していきます。

徳川慶喜は自撮りが大好きナルシストだった


慶喜が一番没頭していたと言われているのがカメラ撮影です。
カメラの魅力にすっかりとりこになってしまった慶喜は、最初は静岡の家の周りや名所などを撮影して回りました。静岡では撮影していないところはないくらいにカメラ片手にラフな格好で出かけていたのです。
慶喜がつけていた撮影記録は、残っているだけで500枚以上!

風景以外には、庶民の生活を撮影していたらしく、その様子をカメラ雑誌に投稿していたそうです。

さらに風景以外に撮影していたのが、なんと『自撮り写真』
慶喜はどうもナルシストだったらしく、時代とともに自分の姿をバリエーション豊かにたくさん残していたのです。
しかも、様々な写真を撮影していたのにもかかわらず、一番の思い入れがこの自撮り写真だというから、本物のナルシストです。

元将軍がキラキラさせて写真撮影をする様子は、どこか少年のような純粋さもあり、急に私たちと近い存在に感じます。

徳川慶喜は静岡県内で自転車を乗り回していた

慶喜は明治10~12年ごろ県内で初めて自転車を入手しました。そして、楽しそうに静岡市内を走り回っていました。
実は、静岡県では明治以降割と早い時代から自転車文化が盛んになっていました。なぜなら坂が少なく、風が弱く雪も少ないことから、庶民たちの移動手段として重宝されていたのです。

この文化の陰には慶喜の趣味の影響が大きくあったと言われています。
明治20年ごろには、慶喜が市内を運動のために自転車で走り回っていたという記録が残っており、その姿をみた県民が自転車というものをどんどん認知していったのではと考えられます。
庶民たちの間ではのちに全国的には珍しく、貸自転車なるものも盛んにおこなわれていたそうです。今でも駅前にレンタサイクルなどがありますが、これが慶喜がきっかけだとしたら面白いですね。

徳川慶喜の書道は誰もが一度は見たことがある

慶喜は絵や書も一流の腕前を持っていました。慶喜の絵を見たことがある人は少ないと思いますが、慶喜の書については誰もが一度は見たことがあるのです。

東京の日本橋。
箱根駅伝のゴール付近でテレビに映る場所です。
そこにこんな風に「日本橋」と書かれた橋の名前の書があります。


この書、実は慶喜の書いたものなのです!かなり達筆ですよね。

趣味でやっていた書道ではありましたが、腕前はかなりのものだという事がわかりました。

徳川慶喜は狩猟に行くとモテモテだった

慶喜はかなりすらっとした顔立ちでした。そのため、狩猟の洋服がかなり似合っており、「モダンボーイ」と名高かったそう。
汽車で天城山に遠征することもあり、その時の姿も自撮り大好き慶喜は写真に収めています。
その写真が明治時代の女性にはかなり好評だったらしく、新し物好きでイケメンだとあこがれの存在だったのです。

徳川慶喜は人生を謳歌した


政治的にも朝廷と和解し、議員にもなった徳川慶喜。晩年は自分の好きなことをしながら悠々自適に過ごす姿は、実にうらやましいですよね。
きっと若いころに潔く自分の立場を見定めて引き際の美学を間違わず、謹慎生活も真面目に行ったからこそのご褒美だったのかもしれません。

将軍と聞くと雲の上の存在にも感じますが、実はカメラ小僧で自転車を乗り回していた男性版ハイカラさんだと考えると突然身近に感じられますよね。
慶喜は数ある偉人の中でも幸せな余生を過ごした人物です。もしかしたらその潔さはどこかの会社の社長だったらもっと輝いたのかもしれません。

もしも徳川慶喜があと100年早く生まれていたら、日本は早く西洋の技術を取り入れて強くなっていたでしょうし、徳川家ももっと長く続いて歴史が変わっていたと思います。しかし、そうだった場合、このように楽しい余暇を過ごすことも、カメラに没頭することもなく、一般人として過ごせなかったはずなので、慶喜にとっては生まれてくる時代は正解だったのかもしれません。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。